●緑間真太郎は医者になりたくない
「奨学金、申請しろよ。それが一番早いって」
「…………」
力強くすすめる火神とは裏腹に、緑間は無言だった。
彼のうなだれた頭が、心なしか弱々しく見える。
緑間の学力なら、ラクにこの大学の奨学金を取得できるだろうに。この男の成績がほぼA(Excellent)であることを火神も知っていた。それなのに、なぜ躊躇っているのか。理解できない。
「…ダメ、なのだよ」
「なんでだよ」
「今学期の奨学金募集は、もう締め切られていた」
「……」
「いずれにせよ、ここは州立大学だ。留学生向けの奨学金はないに等しい」
「あっ…そうだな。そういや」
ようやく気づいた。確かに、自分たちはこの国の人間ではない留学生だった。
火神は父親がロサンゼルスで会社経営し、かつグリーンカードを取得しているため、つい忘れてしまう。
「だから残された道は、このフェロモン香水を完成させるしか方法がない…」
緑間は悲壮な声でつぶやき、長い睫毛を伏せた。
端的に言うと、彼はいま大学三年で、この先は大学院に進学予定だったが、その学費がなかった。奨学金は?学資ローンは? 学費免除の申込は? と、矢継ぎ早に火神は提案したが、なるほど…と思う理由で、すべて却下されてしまった。
二人だけしかいない研究室は静かで、ときおりアルコールランプで滾る熱湯だけが意識された。
白衣姿の緑間。それに火神。
大きめの金属製ケージには数匹のマウスがいる。
教室くらいの広さを持つこの部屋は、今日は窓のブラインドが上げられ、明るい自然光が差し込んでいる。
午後遅くであってもアメリカ西海岸の陽は、なかなか翳りをみせない。
ガラス越しの陽射しに、目の前の火神の髪が明るく透けて見える。燃え立つように赤い。同色の目が、心配そうに緑間を見つめている。
その赤い目に、つい実験用マウスを思い浮かべてしまう。
がさつそうに見えるこの男が心から自分を案じてくれているのを、緑間は内心知っていた。
素直に応じられるようなつきあい方をしていないし、自分の性情ではなかった。
この男の些細なひと言から、緑間は留学を決めた。それを後悔はしていない。
二人の在学するこの大学。UCLA――カリフォルニア大学ロサンゼルス校は、遠く日本から離れている。
なので緑間は勘違いをしてしまったのかもしれない。
「話せば親も分かってくれる」と。
見聞を広めるため国外に進学したいと願い、許されてこの大学に入学した。
先祖代々、医者の家系に生まれたため、将来の進路は医者と定められている。
本人もそのつもりだった。大学卒業後はMD(医師資格)取得のためメディカルスクールに進学することが予定されていた。
それでも、もしかして理解を得られるかもしれない、と期待した。夏に帰国した際、
「現学部の大学院に進学したい」と、親に申し出た。それは暗に医者になりたくない、と告げたも同然だった。
もちろんそれは許されることではなく、激怒と共にすぐさま、生活費、その他もろもろは差し止められた。
今年度の学費は納入済みだが、来年度学費、その生活費、教科書代。一体どう捻出したらいいのか…。
高校卒業後、普通に国内で進学すればいいものを、緑間はなぜかアメリカの大学に進学を決めた。
きっかけは火神だった。
そう、あれは三年に進級し、そろそろ受験勉強も佳境という時期だった。
(む…なんだこの英文プリントは…。…Taiga?)
あまり綺麗とは言えない殴り書きの署名。
見るつもりはなかったが、SAT~の文字が目に入る。何かのテストプリントらしく、設問はすべて英文で書かれている。
(Taiga Kagami…これは火神のか…SAT?)
火神は、教室では緑間の前の席だった。
「あ、サンキューな」
緑間から無造作に受けとる。
「お前、SATを受けるのか?」
SAT=Scholastic Assessment Testはアメリカの大学進学適性試験で、簡単に言うとセンター入試のようなものだ。 センターと違うのは、SATは高校在学中に受験でき、年に数回実地され、繰り返し受験することが可能だった。
勉強嫌いな火神が、進んで受けるとは珍しい…。
「もう、受けた。大学はあっちにするから必要なんだよ」
また受けて、もっとテスト・スコア上げてぇ…と呟かれて、こいつは本当に火神なのか?と緑間は目をむいた。授業中はいつも眠そうで、朗読してみろと言われれば、たどたどしく間違える、この男が。
「これは模試テストだけどな」
「もう一度、見せてもらってもいいか…?」
ああ、いいぜ。と、火神はバッグから電話帳のような分厚い本を取り出した。見ると表紙に「PRACTICE TEST FOR SAT(模擬テスト集)」と書かれている。教科書一切を持ち帰らず、ロッカーに常備している火神が、見るからに重そうな問題集を持ち帰ることに驚きを隠せない。
「進路指導で必要だったんだよ。先生にホントに大丈夫なのか?って心配されて」
でもこの全問正解のプリントと問題見せたら、納得してくれた!と無邪気に言ってのける。
「お前が…全問正解?」
「ほら、800点!」
「800…!?」
100点ではなくて800点…。一体どのような採点なのか。緑間の戸惑いを察したのか、火神が補足する。
「SATの満点は800点。全部で三教科、試験あるんだ」
「その合計が800点なのか?」
「いや。一教科の満点が800点。なんで全部だと2400点が満点になる」
渡されたプリントを見ると、確かにすべて正解しているように見えた。
「すげーだろ?」
「あ、ああ……お前のことを見くびっていたのだよ」
「そんな驚かなくてもいいぜ。多分、お前ならもっといい点とれんじゃねえの」
ぶっちゃけSATの数学、そんな難しくねえから。動揺が隠せない緑間を哀れに思ったのか、火神がフォローしてくる。
だが緑間が驚いたのは、この男の意外な学力ではなく、国外に進学するというその言葉にだった。
なんとなく漠然と、火神はこの先も自分の周辺にいるような気でいたのだ。
同じバスケ部にいたことや席も近いことから何となく話すようになっていた。多分、他人の中では一番近い存在だ。
つい黙り込んでしまった緑間に
「お前も試しに受けたら」と言われ、まあよかろう…と思ったのがきっかけだった。
気まぐれに受けたSATで、思いがけず高得点を取ってしまった。
「すげェな!」
火神の賞賛が心地よい。
「これはそんなに、いい点なのか?」
満点に近いと言われて、満更でもなかった。
それで、すっかりその気になってしまったのかもしれない。
火神が国外に進学希望しているのは、大学くらいは父親の近くにいたい、バスケ、膝のメンテナンスが理由だと、話すうちに分かってきた。
そして気づくと、なぜか緑間も親に頼み込んで同じ大学であるUCLAに進学を決めていた。
それが――、来年は学費が支払えないというシビアな理由から、終わろうとしていた。
「素直に、俺から借りときゃいいじゃねぇか」
「いや。それはダメなのだよ」
緑間の窮地を知った火神は、すぐさま父親経由の資金提供を申し出た。
嬉しくはあるが、もちろん受けるわけにはいかない。
自分でどうにかすべきだと感じ、模索した。 経済的理由での学費免除の申請も考えたが、難しかった。
そんな時に見出した活路は、緑間の専門分野の、あるアイテムだった。
「フェロモン香水??」
ものすごく怪しげな響きだ。
何のことか分からない火神に、緑間がいやそうに雑誌を渡してよこした。
受け取ったそれをパラパラめくると、あまり服を着ていない女たちがたくさん載っていた。
「ふーん。お前もこういう雑誌、読むのか…意外」
「…仕方なく買っただけなのだよ。誤解されては困る」
裏表紙にカラフルな「フェロモン香水」広告を見つけた。
『つけた瞬間モテる!』
『年齢=彼氏いない暦だった私が、このラブアクションXを使ったら、あっと言う間に彼氏できちゃいました!
ナンパがすごくて通勤途中、お買い物中、スポクラなどの様々な場所で声を掛けられるように! 覚えてるだけでも二日で十人以上に声かけられちゃいました』
いきなり何人もの知らない人から声をかけられるのは、むしろ怖すぎだろ…と火神はびっくりしたが、ようやくどういうものかは理解できた。
「もしかしてモテたかったのか?」
「俺がモテたい訳ではないのだよ!」
声を荒げ、諦念とともに緑間が窓辺に歩み寄みよる。
五階にあるこの部屋からの眺めは、悪くはない。遠くに時計塔が見える。朝と夕方には鐘がきれいなメロディーを奏でる。スタジアムにテニスコート、幾つもある校舎は濃い緑に囲まれている。
なによりも、緑間と火神が愛してやまないバスケットボールで、この大学は強豪として有名だった。
最初、「学費調達のため、フェロモン香水を作ろうと思っている」と打ち明けられた火神は、この男が心労でどうにかしたのかと思った。
けれど次第に納得した。緑間の専攻は生物物理学なので、フェロモンに関してはまったくの門外漢ではない。
それにこれがダメならそれを口実に金を渡せる、とも思う。
…なんとなくだが、火神は責任を感じていた。
保守的と思っていた緑間が、在米の大学に進学し、医者になりたくないと意思表示したことに。この先どうなるにしても、できるだけ力になってやりたかった。
「売れるといいな」とだけ、口に出す。
明らかに寝ていない顔の緑間を、もう見たくはない。
ホッとして、アルコールランプで熱した熱湯でコーヒーを淹れる。
「たぶん売れると思う。俺が考えているのは多人数に作用するものではなく、ただ一人の対象者に作用する、画期的なものだ」
火神から手渡されたコーヒーを受け取り、緑間は嬉しそうに告げた。「すでに試薬は完成し、動物実験も済ませた」
「このネズミか?」
かさかさと、細かく千切られた紙切れの音がする。二人の前には、小動物用の檻がある。
大きめの金属製ケージには数匹のマウスがいる。紙屑の中、白いネズミがせっせと巣を作る姿が見えた。そっと火神が覗き込むと、紙を噛んでいた小さなマウスが、ビーズのような赤い目を向けてきた。
緑間の目当てのマウスは隅にいた。ひとかたまりに見えるのが、それだった。
ひときわ大きい白ネズミが、他のネズミの体にのしかかっている。哺乳類につきもののマウンティング(交尾の姿勢)だった。
大きなネズミをミッキーとし、小さいネズミはスモールと呼んでいた。
ミッキーは人の気配を物ともせず、一心に求愛行動に打ち込んでいた。
「ミッキーは、スモールに夢中だ」
スモールは、ミッキーにのしかかられている小ネズミを指す。
二匹とも雄だった。
スモールはじたばたと、大ネズミの体の下で足掻いていた。ミッキーの行為は迷惑にしか感じていないようだ。スモールの耳は赤くマーキングされている。緑間はネズミを、その耳に塗布した染色で見分けていた。
「これはどう考えても、フェロモン効果が認められたのだよ」
「メスと間違えてるだけなんじゃねえの」
緑間は傍らのレポートを火神に示した。
「読んでみてくれるか?」
そこにはネズミたちの臨床データが詳細に記されていた。
火神はレポートに目を走らせた。
大ネズミの、人間でいうとアドレナリンにあたる体内物質が、かなり突出した数値となっている。
そこに示されている数値は、このマウスの平常時の二百倍だった。
これはマウス同志の争いや交尾時に現われる値に、きわめて近い。
データでは数日前に、このネズミの発情期が過ぎたと記載されていた。周期的なそのピーク直後に、すぐまた発情することは、健康なマウスではない。
試薬を与えられる前は、メス相手にノーマルな性行動を取っていた旨も記載されている。
動物の生態上、同性に生殖行為を働くことはあるが、この檻の中には、発情時期にあるメスのネズミ数匹を入れてあった。
普通ならそのメスの性誘引ホルモンに引き付けられるはずのミッキーは、それを無視して同じオスのスモールから離れようとはしなかった。
オスならどれでもいいのでは、ないらしい。
同性スモールに夢中なミッキーのすぐ横に、別のオスがすやすや寝入っていた。が、まるで見向きもされない。
明らかにミッキーは個体選別して、スモールにのみ反応しているということになる。
「そういうわけでヒト臨床実験をしたいと思っている」
神経生物学が、緑間の大学での専攻分野だった。
その関連もあって、フェロモンに関しては多少の理解があったが、特に最近ミツバチに関心を向けていたのはこれだったのか…と火神は思い当たった。
外歩きしているとき、いきなり緑間が鋭い双眸で花にたわむれる蜂を見つめだし、どうしたことかと案じていた。
蜜蜂は生れながらにしてその女王蜂に従順ではなく、後天的に、女王蜂の出すフェロモンによって従っている。
フェロモンは一般に、昆虫、動物などが分泌する科学物質で、警戒や支配、性行動を引き起こす。
(これを人間に応用できないものか…)
不特定多数にアピールするフェロモンではなく、一人の人間が、ある特定の人間だけに心奪われるように働きかけるものを作りたいと考えていた。
それは一般的に古来から俗に「惚れ薬」と呼ばれている類のものだった。
「ミッキーのDNAパターンに同調するフェロモンを、スモールに塗布した。その結果ミッキーは、同じオスであるスモールに執着している。これは…効き目ありだと思うのだが。どう思う火神」
それは単に、自分の匂いに惹かれているだけなんじゃ…。しかし目の前で気をよくしている緑間に言うには、忍びなかった。
口に出しては「あー…。ネズミと人間とじゃ違うだろうし、どうなんだろうな」とだけ言った。
「だから、臨床実験すると言っただろう? 動物実験の結果は見ての通り、極めて良好だ。次は人間で臨床データを取る。そう。例えば、お前に任意抽出した『ある特定の女性A』を夢中にさせよう」
「えっ…なんで俺?」
「女性Aをお前に夢中にさせるとしたら、彼女のDNAサンプルが必要なのだよ」
「いや。別に…夢中にさせてくんなくても…」
「まず簡単にDNAが得られるのは、髪や皮膚だな。髪は毛根部が最適なサンプルになる」
「髪は分かるけど、皮膚は難しいんじゃねえか?」
まさか生皮を剥がすわけにもいかないだろう。
「それは―――」
緑間は壁のデスクに歩み寄った。
雑多な事務用品が並ぶそこから、どっしりと重そうなテープカッターを引き寄せる。
「テープを使うのだよ」
少しカットした透明のテープを、緑間は火神に見えるように指で示した。
「これを…なるべく自分の指が粘着面に着かないように持って」
緑間は火神に近付き、その手を取った。
手の甲に、そのセロテープをくっつける。
「相手の肌に触れさせる。すると…」
火神の手の甲からテープを剥がした。 すると透明だったテープが、かすかに白く、曇った感じになっていた。
「透明だったテープが白くなっているがこれがケラチンだ。皮膚の一部で、遺伝子情報が含まれる。こうすれば簡単に相手DNAが手に入るのだよ」
「へえ」
ちょっと感心する火神だった。
「髪の毛は、さらに楽に手に入るだろう。相手のヘアブラシからその髪を取るか、あるいは」
緑間は目の前の火神の服を仔細に検分した後、ひょいと手を延ばして何かを摘み上げた。見ると髪の毛だった。
「こうやって取るといい。髪の毛が服に落ちてなかった時は、相手の頭から自力で取るしかない」
「自力?」
さらに緑間は実演してみせた。
「あんまり明瞭に『髪の毛を欲しがっている』のが分かるのはまずい。あくまで目立たないようにするのだよ」
向かいあった体を今度は抱き寄せた。手が親密な感じに、火神の肩に置かれる。
「え…?」
こういうのは一般的に「いい雰囲気にみえる」かもしれないと思ったが、緑間が相手だし…と若干引き気味で、火神は立ちつくした。
「火神…」
「……」
緑間の手が、火神の髪にそっと触れ、赤髪の中を滑る。
「こうやって近付けば」
火神の髪の毛が何本か、いつのまにか緑間の手に移っていた。
「簡単だ」
「確か色仕掛けって言うんだよな? こういうの」
互いが密着した体勢のまま、火神は感心して呟いた。
「そんな破廉恥な意図は無いのだよ!」
「緑間っち…たち…?」
突然の呼び掛けに、緑間と火神は弾かれたように顔を上げた。
見るとドアに呆然とした黄瀬が立っていた。
「なにして…」
黄瀬の唖然とした様子に、遅蒔きながら自分たちの姿がかなり誤解を招くものであるのに気付いた。
「ご、誤解だっ!」
慌てて、弾かれたように離れる二人だった。
火神が授業を受けるため退出した後、緑間は黄瀬にフェロモン香水のことを説明していた。黄瀬もここの大学生だった。非常に綺麗な顔をしていて、モデルとしてアルバイトもしている男だった。
「あーなるほど。でも俺なら絶対欲しくない香水っスね。今以上に女性にモテるなんて…どんな地獄なんスか」とげんなりする。
「まあ、お前には必要なかろう」
「それにやっぱり臨床実験て言っても、あとでバレたら怖くないっスか。ヒトの心を操った!とか面倒そうだし。ところで誰に実験対象になってもらうつもりだったんスか?」
まさかオレっすか?と怯えを含んだ黄瀬を、一蹴する。
「違う。実のところ俺自身でやろうと思っていた」
「緑間っちが? で、誰が相手?」
まさか火神っちじゃないッスよね?
そう疑問をぶつけると、緑間は少し困った顔をした。
「実はそれも考えていた。流石にまずいと思って諦めたのだがな」
火神なら事情を心得ているため、快く協力してくれると思った。緑間が、火神のDNAパターンのフェロモン香水を使用し、火神に作用させようと考えていた。しかし、今までの交友関係が結果に影響しそうなことと、ブラインドテストにならないことで却下した。
「被験者を公募しようとも思ったが…、後で訴訟沙汰になりそうだと断念したのだよ」
緑間は、フェロモンが確実に作用したことを立証するため、異性愛者に同性のフェロモンを作用させようと考えていた。
「それは危険すぎるッス! そんな実験、よほど金に困ってるか、性的にオープンすぎな人じゃない限り、無理としか…。あと、訴えなさそうな人でないと」
「…探せばいるのだよ、きっと」
そう言いつつも、どうにも難しい気がして緑間は途方にくれた。
□■□
次の授業に出る前に、火神には、まだしばらく時間があった。
ボールもあるし、少しやっていきたい。
そう思ってあまり人が来ない穴場なバスケットコートに出向くと、先客があった。
バスケットリングは二つあるから別段、問題はない。
早速やろうと思ったが
「あ…そういや、飯」
やっと思い出す。緑間を励ますために、と自分と緑間分のランチを作ってきたが渡しそびれていた。
(一緒に食おうと思ってたけど…。まあ、いい。また明日なんか持って行ってやろう)
ひとまずベンチに座り、持参したボトルの温かい緑茶を注ぐ。ほどよい熱さで飲み頃だった。弁当を取り出す。しっとりした海苔と、硬く炊いた米は、火神がたまに食べたくなるものだった。
もきゅもきゅと頬袋につめこむ。
(美味え)
揚げ物や焼いたタマゴ、しょうゆ味にホッとする。
子供時分はアメリカで過ごし、中学高校だけ、日本で生活していた。過ごしたのは短い間だったが、和風の味にすっかり馴染んでしまった。
食べながらコートを見ると、遠目にも長身だと分かる男が、一人、バスケに興じていた。
しなやかなそのボールさばきから、かなり熟練したプレイヤーであることが知れた。
種敏な動きでダブルハンドダンクを決めると、ゴールポストが、ビリビリと震えた。
(すげエ。かなりのパワープレイじゃねえか)
内心、目を見張っていると、その男は火神のいるほうに近づいてきた。
浅黒い肌。切れ長の目が興味なさげに火神を一瞥して反らされる。荒々しくベンチに腰掛けて、タオルをつかむ。弾む息を整えようとしていた。
そういえば隣ベンチに、誰かのドリンクボトルとタオルが置きっ放しだったのを思い出す。
その視線に一瞬、身を硬くしたものの、火神はすぐに注意を食べ物に戻した。
肉巻き握りは中々、上手くできた。味もまずまず、だった。今度は煮卵を丸ごと入れたのを作ることにしよう。
(食い終わったら少しだけハンドリングして、今日は帰るか)
「俺はもう終わったから、やりたいなら使えば」
その愛想ない声が自分に話しかけていることに、火神はやっと気づいた。
ちらりと見ると、目があった。浅黒くよく焼けた肌だな、とすぐ思った。それにブルーブラックの髪。眉間に皺がある。
「あー…サンクス」
無愛想な見かけとは裏腹に、親切なのかもしれない。男の目が、火神の弁当に向けられていた。
「なあ…それ、どこで売ってんの」
「え…この飯のことか?」
適当に詰め込んだ、どこにでもあるような弁当だ。
と、ここまで話して気づいた。お互い日本語で話していることに。
相手の顔に戸惑いはない。
「これは自分で作った」
「売り物じゃねえのかよ…。あー…普通の飯くいてぇ」
そう嘆く声が、あまりにも悲痛で、思わず火神は苦笑した。
「もしかして腹減ってんのか」
「…………」
この男も緑間と同じで、何かの事情で経済的に厳しくなった苦学生なのかもしれない。
そう思うと、にわかに同情心が込み上げてきた。
自分の分とは別に、渡しそびれた緑間用ランチがあるのを思い出す。ちょうど良かった。
「なあ、これ。余分に作ってきたのあるんだけど。よければもらってくんねぇ? あ俺は火神。お前は?」
□■□
なんにでも順応できると思っていた。
高校時代だって。練習にでなくても試合では何とかなったし、やれた。
だからこの大学に、バスケの実力を買われて勧誘された時も深く考えずに、入学した。
幼なじみのさつきからは、一人でやっていけるの…? と心配された。
それを軽くあしらって渡米した。
青峰としては、一番高く自分に値段をつけた大学に入っただけのことだった。
しかし、なじみの無い外国で暮らすことがこれほどストレスになるとは思わなかった。特に飯。
テリヤキバーガーならなんでもいいと思ったが、こっちのは少し味が違う。
それほど味にこだわりがあるほうではないのに、本当に些細なことでテンションが下がる。
こんなので、あと一年――青峰は来年のNBAドラフトにアーリーエントリーするつもりだった。もちろん大学は辞める予定だ――やっていけるのだろうか。先が思いやられた。
(…普通の、メシ食いてぇ)
憂鬱な精神状態が反映されるのか、最近、青峰はパッとしない。まだバスケ部でのチーム練習がはじまっていないのだけ、マシだった。今日も一人、体を動かしてみたけれどまったく楽しくない。
だりぃ、と思っていると、ちょうど誰かコートを使いたいのか近づいてきた。
ダンクを決めて、荒々しくベンチに倒れ込むと、美味そうな匂いがした。
気のせいか…
目を上げると、隣ベンチの豪勢な飯に気づいた。
ぎっしり玉子や揚げ物、肉が入っている。海苔を巻いた飯。出汁としょうゆの匂い。
ごくり…
と喉が鳴った。
気づくと話しかけていた。
気さくな赤髪の男は、余分があるから、と青峰に茶色い袋を渡して寄越した。
『友だちに作ってきた分、よければもらってくんねぇ?』
授業があるからと、火神が立ち去った後に気づく。その名前しか聞いていないことに。
「…どこに行きゃ、テメーに会えんだ」
この広い大学構内でまた会えるだろうか。
普通なら諦めてしまうだろう。
だが、なぜか青峰は確信していた。もう一度、あの男に会えるだろうと。
→つづく
