●「緑間っち! 金に困ってて、性的にオープンで、訴えなさそうな人いたッスよ!」


『International applicants please note: UCLA does not award scholarships of financial aid to undergraduate students who are not citizens or permanent residents of the United States.』

=留学生の留意事項:UCLAは、米国市民または永住者ではない学部生に奨学金や財政援助を授与しません。


静かな研究室には、ゲージ内のラットがたまにキーキー鳴く音だけが響く。
緑間は、ノートPC画面を凝視していた。
見ているのは、自分が通っているUCLA公式サイトだ。
UCLA=カリフォルニア大学ロサンゼルス校。
その「料金、授業料、および推定学生予算」ページ文末の、だめ押し文言を見てため息をつく。そう。俺は奨学金を得ることは出来ないのだ…。
本年度分は学費は前納されている。しかし来年度分からは実家からの援助はない。
「こうなると分かっていれば…」
今は九月だ。
こうなると分かっていれば、前学期に取れるだけの単位を取ったものを。そうしていたら三年ではなく四年生に進級できていたかもしれないのだ。
また夏学期にもバイトするか、奨学金探しに奔走できたのだが。…今となっては結果論だ。

思いに耽る緑間だが、勢いよくドアが開いた。ノック無しだ。
勢いよく黄瀬が入ってきた。この男はいつもこんな調子だ。

「緑間っち! いいニュースが!」
「せめてノックしたらどうなのだよ」
毎度、騒がしい男だ。ふ、と嘆息してみせた。
「はーいッス。あれ、資料整理中?」
「いや。引っ越し準備だ」
積み上げた円盤…光学ディスクをもくもくとノートPCに飲み込ませてはデータを落としていく。渡米時に持参したDVD-Rだった。高校時とその他試合データだが、もっと早くどうにかするべきだった。かさばって仕方がない。
「引っ越し?」
黄瀬は驚きの声を上げた。
「なんで? 緑間っちのあの高級アパート住まいでしょ。あ、寮に入るとか?」
「すぐではないのだよ」
引っ越すとしても来年だ。
それでも今のうち、できるだけ手持ちのものを最小限にしておきたかった。
緑間は大学からすぐの家具付きアパートに住んでいた。こちらでのアパートはマンションに相当する。中でも緑間の住まいは高級な部類と思われた。使ったことはないが住民用のプール、フィットネスジムもあり、入口には二十四時間常駐のコンシェルジェもいる。生活する上でまったく不自由はなかった。
しかしそこも、来年三月末に賃料が切れるのだ。学費と共に。
そう、親が通告してきた。
ついでに医学の道に進まないと決めた不肖の息子に、帰国用の片道航空券を送ってきた。
緑間に残された時間はあと半年。来年の三月末までだ。それが終われば学費も生活費も尽きる。それまでに、この窮地を脱する方法を見つけるのだ。
「……で。何が吉報なのだよ」
「はっ、そうッス!」
黄瀬はスツールを引き寄せて、作業する緑間の横に座った。肩をぶつけて興奮を伝えてくる。
「緑間っち! 金に困ってて、性的にオープンで、訴えなさそうな人いたッスよ!」
「はぁ? なんなのだよ、藪から棒に…」
「ほら、この前に探してた惚れ薬の! 被験者!!」
「惚れ薬ではない。フェロモン試薬だ」
そっけなく、訂正する。
しかし緑間の言葉を聞いているのかいないのか、黄瀬はまるっと無視して、弾丸のように言葉をついだ。
「ちょうどカネコマで、女にだらしないkzヤローがいたッス! しかも俺たちと同じ日本人。訴訟の心配が無さそうな良物件っしょ!?」
(カネコマ…とは、おそらく金に困っているの略語か? 女にだらしない異性愛者…ふむ、確かに被験者として申し分ないな)
しかも母国語が同じとなると、意思の疎通や実験レポートの把握も容易だ。緑間は問題なく英語を読み書きすることができるが、やはりネイティブには若干は劣る。
ネイティブといえば…
「そういえば、お前は二重国籍と聞いたぞ」
と黄瀬に問う。先日まで、彼のことを自分たちと同じ留学生と思い込んでいた。しかしよくよく話を聞くと、親はこの州に住んでおり、国籍も日本とアメリカなのだと知った。なるほど黄瀬の英会話は自然だった。
「羨ましい…」
思ったことを、つい呟いてしまう緑間だった。
「えっ、なんでッス?」
「学費が全然、違うのだよ」
「……はぁ」
無言で手元にあった紙切れを、黄瀬に差しだす。
メモ書きに目をさまよわせて、読み上げた。
「えーっと…なになに…
『一学年度の学費
カリフォルニア居住者  $ 15,926(約174万円)
カリフォルニア非居住者 $ 43,940(約481万円)』
――えっ…たッ、高っ!? ほぼ二倍以上ッスか?」
「黄瀬はこのカルフォルニア州在住者なので前者の学費だ。火神や俺は非居住者学費だな」
州立大学だからこそ、この学費の差なのだろう。卒業までの四年間×481万=1924万円となる。
「これに加えて、生活費や教科書代がかかる。年間300万円くらいか…。正直なところ、こんな巨額を親に払わせていたのを知らなかったのだよ」
「俺も知らなかった…」

黄瀬は痛々しそうに、メモの書き文字を見つめた。
緑間らしい、端正で神経質そうな書き文字だ。
紙切れのはしに、なんども生活費を試算した跡が残っていた。一学年度の学費、約四万ドル。それに生活費に、安く見積もっても約三万ドル…。

(緑間っちが、惚れ薬を売ろうと考えるのも、無理もない)
黄瀬にとって火神と緑間は、バスケ仲間だった。自分たちの通う大学であるUCLAは、ディビジョンⅠの強豪バスケ校として有名だ。もちろんそっちとは無関係で、自分たちのやっているのは個人のストリートバスケだった。
学部はバラバラで、顔見知りですらなかった。最初は黄瀬が一人、人気のない穴場リングで遊んでいたところに、ある日から火神と緑間が加わって、グッと楽しくなったのだ。
(なんとか、力になりたいッス)

「でもなんで、惚れぐす「フェロモン試薬だ」…フェロモンを売ろうと思ったんスか?」
「あと二年、卒業まで何とかしのげれば…と思ったのだよ。卒業して博士課程に進めば、授業料は免除される」
「あーなるほど!」
黄瀬は納得した。なぜ緑間が、卒業までは耐えようとしているのかを。
日本と違い、アメリカの博士課程入学に修士号はいらないことが多い。このUCLAもそうだった。しかも優秀な学生であれば奨学金は複数受けられるし、生活費も出る。

「で、被験者が見つかったというのは?」
「はいはいッス! これこれ!!」
黄瀬はスマホを開いた。
「えーっと、あれどこだっけ…。あった! コイツっすよ。青峰大輝――。バスケの奨学金オファーでこの前、入学したヤツ」
「奨学金?」
いま緑間が一番欲している、奨学金をいとも容易く得た男。
黄瀬の見せたスマホには、まだ若い男の姿があった。
『いま最もNBAに近い男と言われている『青峰大輝』選手(18歳。桐皇学園高校卒)がUCLA入学へ!』
浅黒い肌に長身。日本での公式試合時の画像のようだった。
緑間は首をかしげた。理由があり、日本のバスケ事情からは遠ざかっていた。月バスですらしばらく見ていない。これは緑間だけではなく、おそらく火神もだった。バスケの実力を買われてこの大学入学した男。これはかなり凄いことだ。素直に感嘆する。
「まったく知らなかったのだよ。奨学生か…学費も生活費も免除とは…」なんとも羨ましい。
「こいつ夏に車で事故って賠償金の支払いが大変らしいって。なんでも同乗してた女とドラッグやってたらしくて。でもカネで揉み消、いやお詫びになったとかで、世も末っすよね!」
「……」
緑間の顔は無表情になった。あっという間に好意が霧散する。黄瀬がクズ、といったのは誇張ではないのだ。…おぞましい。話を聞いただけでも、うんざりした。
「そんな男なのか。よくも退学にならないものだ」
「ホント不思議。こいつのバスケの腕がどの程度か分からないけど、最低すぎッスよ」
「こういう男に被験者になってくれと頼むのは…」さすがに気が進まない。
それに実験に協力してくれる火神に、危険が及ばないか心配だ。やっぱり無理だ。断ろう。
「だからッスよ。金に困ってるから喜んで受けるだろうし」
「……」
「最初に『言われたことに従います、何をしても訴えません、他言しません』書類にサインさせちゃえばいいッス」
黄瀬が天使のような顔で微笑む。
この男、チャラチャラしているように見えてその実、手堅い。数年前にグリーンカードを得た黄瀬の両親はオーガニック食品のスーパーチェーンを経営している。その家庭環境ゆえか、実利的なことに関する黄瀬の助言は、たいてい正しい。

「それにコイツ。NBA入りするなら、多分、来年春にはこの大学ヤメてるだろうし」
「なるほど。アーリーエントリーか…」

通常、バスケットの学生選手がプロチームの指名契約を受けるには、大学卒業し、規定手順を経る必要があった。
しかし「アーリーエントリーを行う」と宣言することにより、卒業を待たずに、NBAドラフト指名が可能になる。
NBAドラフトで一巡目の高位指名が期待される選手は、たいてい大学では一シーズンしかプレーしない。一シーズン=つまり今年十月から来年四月末を指す。つまり、青峰は来年四月にはアーリーエントリー宣言して、大学中退するに違いない、と黄瀬は示唆しているのだった。
「そんなワケで、コイツなら後腐れなく被験者になってもらえるんじゃないスか?」
「……ああ、そうだな」
とりあえず、会うだけあったら、と言われ頷くしかなかった。

彼の助言に従うつもりの緑間は、大事なことを見落としていた。
黄瀬は基本的に気がよく、そして手堅いところもある。要するに、この男は派手な外見のワリに意外といい奴だった。
しかし、たまにとんでもない勘違いをする。そのことを忘れていた。
――ドラッグと女で金に困っているその学生が、本当に青峰であるのか。基本的な確認を忘れたまま、緑間は被験者候補について意見を固めつつあった。


黄瀬はスマホで大学バスケ部の動向を調べ出した。
「大学バスケ部の練習っていつ…え、十月二週目から?」
今は九月末。被験者としては、むしろ好都合だった。だが遅すぎやしないかと黄瀬は思った。
「学期初めは、まずは授業優先となっているのだよ。いまの時期はチーム練習をすることは許されない」
「へえーじゃあ、どこに行けばコイツ――青峰に会えるんスか」
「学生寮、もしくは出ている講義を待ち伏せるかするしかあるまい」
「なるほどね…。オレもできるだけ、協力するッスよ!」

黄瀬が嵐のようにまくし立てる間、緑間は次々と手元のDVD-Rをデータに落としていた。ディスク自体は捨てるつもりだった。しかしあるDVD-Rで手が止まった。表面に拙い字で『ウィンターカップ』とだけ書かれている。火神の字だ。
落としたデータを再生した。
動画が再生される。少しだけ今より若い、火神とかつてのチームメイトたちが生き生きと動き出していた。四年前のウィンターカップ準決勝だった。
黄瀬がノートPCをのぞきこんだ。
「あれ、緑間っちと火神っちの出てる試合…いつの?」
「高二のときだな」
淡々と答えるが、胸にこみ上げるものがあった。
この試合を最後に、火神はバスケをやめたのだ。データをインポートしても、この光学ディスクだけは処分はできない。そう気づいた。
緑間は、作業を続けるのを諦めた。黄瀬の言うとおり、この被験者の男を探しにでも行くか…。


 
   □■□

(今日はアイツこねーのかな)
青峰は一週間前に初めてあった男、火神に会いたかった。初めて会った場所に今日も来てみた。ベンチでソワソワと待つ。
(メールすりゃ、よかったかも)

最初は、連絡先も交換せずに別れた。火神は青峰が止める間もなく、行ってしまったからだ。
広大なキャンパス内で偶然に会うのは不可能に近い。ガッカリしていたが、なんてことはない。翌日に、この寂れた穴場コートで青峰が一人、色々なシュートを決めていると、あの赤髪がやってきたのだ。
(…っ…!!)
青峰はすぐ気づいて駆け寄った。
『あ、この前の…』
赤髪の男の目が、青峰を認めた。
忘れられていなかったようだ。その言葉にホッとする。
『なあ、あんた。この前はありがとうな、弁当メチャ美味かったぜ。あ、火神…って呼んでいいか?』
ついでに青峰は自分の名前も告げた。
『いいぜ。へえ青峰、って言うんだな。…っかこの前にも名前聞いたよな、ごめん。よろしく頼むぜ』
自分の名を呼ぶその声は、心地よかった。
火神の態度が変わるかも知れない、と少し不安だった。だがまったくそんなことはなく、目の前の男は、しごくあっさりと受け入れてくれた。
その反応に、火神は自分の経歴その他、まったく知らないのだと悟った。おそらく青峰のことは、単なるバスケ好き留学生くらいにしか思っていないのだ。NBA入りすると喧伝されている噂のルーキーとは知らない様子だった。
このゲームをする人間は、自分のことを知って当然だとも思っていた。だが、ここまで見事にスルーされている。それに名前すら忘れられていた。こんなことは初めてだった。青峰はクッ…と喉元に笑いをこみ上げさせた。自意識過剰なのがバカらしくなる。
『メシ、口に合ってよかった。青峰は学生寮にいるのか?』
『ああ』
『カフェテリアには和食もあるぜ』
知ってる。食ったこともある。大学すぐの街に日本食レストランもある。けれど、青峰は昨日の弁当ほど美味いものは、ここしばらく食べたことがなかったのだ。

それから火神にやや強引に迫ってメールアドレス交換をし、ストバスもした。
バスケしたくてたまらない様子に見えていたが、彼を誘うとあまり乗り気ではなかった。
『ヒザ痛めてて、あんま早く動けねえんだけど。それでもいいならやろうぜ』
1on1すると、彼が言うとおり、本当にゆっくりとしか動けないことに気づいた。
凡庸なプレーだった。少しガッカリしたが仕方がない。火神がボールを持っても、すぐカットできたし、ディフェンスもゆるゆるだ。
そんなふうだったが、この男とのゲームは楽しかった。
最初は何これ弱ェ…と落胆したが、気負わずにただ楽しんでいる火神の様子が、青峰も伝搬したようだ。
あれから何回か会っていた。
おなじくらいの年齢と思っていたが、火神は青峰より二学年上の三年生だという。
英語を話さなくていいので疲れない。たまに分けあたえてくれる飯にも、すっかり手懐けられた。しかも1on1やちょっとしたシュートゲームの相手にもなる。そんなふうに、新しいこの知り合いと会うのが楽しみになっていた。



結局、今日は三十分ほどコートで待っていたが、火神は来なかった。
(まあ仕方ねぇな。約束してたワケじゃねェし)
青峰は肩をすくめて、ベンチに放ったままの手荷物をまとめた。メールしてみっか…とスマホを見ると、充電が切れていた。真っ暗な画面に舌打ちする。今日はもう帰ろう。
(…そういや、アイツのことよく知らねぇな)
火神の下の名前がなんていうのかも、学部も、どこの学生寮なのかも。ああいう気楽なヤツとルームメイトだったら、学校生活も、もっと楽しいだろうに。

大学内はバスで移動する。
コートを出て循環バスに乗り込むため、青峰は一番近いバス停まで歩いた。停留所に着くと、先に待っていた男がハッとした表情をした。自分より長身だ。
(きっとニュースか何かで、俺のことを見たことがあんだろう)
気にも留めないで無視する。
しかしその男の視線は、少々度が過ぎている気がした。アジア系の、眼鏡のまじめそうな男だが、なぜか不躾なほどに見られていた。
(何なんだ、コイツ…)
気持ち悪ぃ。思わず、威嚇する視線を返そうとする。

とそこに、割入る声があった。
「緑間! ほらこれ忘れてんぞ」
凝視男が、声のほうを振り返る。
青峰もつられて見た。
(え……火神?)
赤髪の男。自転車に乗っていた。手には茶色い紙包みを持っている。
「あ、ああ…済まなかったのだよ」
「じゃ、また後で」
そのまま、青峰に気づくことなくシャッとチャリを走らせて、彼はどこかに走り去った。声を掛けるスキも無かった。
(火神は、こいつは知り合いなのか…)

茶色い紙包みにはたと気づく。
最初に火神と会った時、こう言われたのを思いだす。
『友だちに作ってきた分、よければもらってくんねぇ?』
もしかして、こいつのことか。

色々、考え込もうとする青峰だったが、遮られる。あろうことか凝視男が、話しかけてきたのだった。

「その…君は青峰、で間違いないだろうか?」
「……ァあ?」

思い切りイラついた声が出た。青峰? 呼び捨てかよ、何だコイツは。
だが、目の前のメガネは怯みもせずに言葉を継いだ。
「君にお願いしたいことがあるのだが、今いいだろうか?」


そうして、青峰が思いつきもしないような、とんでもないことを言い出したのだった。






→つづく(執筆中)


■あと2-3作くらいで完結できると思います。
夏コミに無配発行し、その後こちらにUP予定です。